JR西日本事故から1年

脱線事故から1年が経ちました。亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。
しかし、1年経って何が変わったのだろうか。JR西でもスピード偏重の見直しとか日勤教育が云々とか話は聞こえてくるが、所詮は一企業による自浄作用などタカがしれているだろう。別にJR西を批判したいわけでなくて、一般論として、直接的な利益と相反する方向への変化を企業の努力に期待するほうが無責任なのである。
安全を一企業に担保してもらおうというのが甘い。国民の安全は、結局、国に守る義務があるのではないか。厳しい安全基準を設けて、それに満たない場合は対応が出来るまで制限をしてもいい。運休や設備投資のための値上げ起こって、乗客も一時的に不便や負担を強いられることになるが、結果的に得なはずだ。いや、得という表現は不適当か。安い代わりにちょっと危険性があるという状況が異常であることに気付くはずだ。

同じ鉄道で

別の例を挙げてみよう。最近話題となっている痴漢および痴漢冤罪について。痴漢に関するいざこざの問題は、痴漢を受けた(と自覚した)女性が被害者な上、冤罪となった男性側も被害者ということになっている状況だと思う(女性が悪意を持っている場合はまた別)。仮に痴漢行為が女性の勘違いだったとしても、勘違いでそれだけ不快感を受けたということになる。じゃあどこに責任があるのかというと、それは勘違いが起こる満員電車という状況、他に無い。
満員電車という状況が無くならない限り痴漢も痴漢冤罪も無くならないことは明白なのに、具体的な解決への動きは無い。解決を電鉄事業者に期待しているからだ。満員電車の解消には、乱暴に言えば電車を増やすか乗客を減らすかしか無いが、どちらも運営するほうには損しかない。だから動かない。あのほとんど効果の無い女性専用車両の導入さえ、お互いが様子を見ながらおそるおそるで長い時間がかかったことも、企業に期待の出来ない、いい証拠だ。
強引なやり方でもいい、混乱が起こってもいい、試行錯誤でかまわないから、事故によって死者の出ないような鉄道のあり方、それに基づいた都市、社会のあり方が形成できれば、それは世界に対しても歴史的にも素晴らしい成果だと思う。そんな国だったら、例え生活が貧しくなっても、胸をはって誇りを持てるのだけれど。

こんなことを考えたきっかけは、

先日のF1サンマリノGPを観ていたことによる。シューマッハがセナの持つPP65回の記録を破ったこともあり、セナからシューマッハへの世代交代とシューマッハからアロンソへの世代交代を無理やり重ねるような放送をしていた。そして、サンマリノGPは12年前にセナが事故死したGPでもある。
セナの事故死は衝撃的でありF1界に大きな影響を与えた。前日にラッツェンバーガーも事故死しており、世界最高峰のカーレースであるF1のルールが、スピードを犠牲にして安全性を確保する方向へ大きく転換した。エンジンの排気量を落とし、空力を制限し、タイヤに溝を入れ、クラッシュテストを厳しくした。中には『?』なルールもあったが、結果的に安全性は目覚しく向上した。今年のサンマリノGPでもモンテイロがクラッシュし、車体が何度も回転しながら破壊されひっくり返ってしまったが、外に出たドライバーは自分の足で何事も無かったように歩いていく。こういった風景が最近では当たり前となっている。
もし、各チームに判断を任せていたら、ここまでの安全性向上は無かっただろう。速さを競う中で、誰が頼まれてないのにスピードを犠牲にするものか。こういったことは、やはり”ルール”で縛る必要がある。

命の重さ

日本の鉄道事業全体が、100人以上もの犠牲者という衝撃に動いて然るべきだと思う。感覚がマヒしてしまう前に、同じことを繰り返す前に。